ごあいさつ

望月音楽教室に興味を持っていただきありがとうございます。
当教室は、自然豊かな長野県松本市と伊那市(南箕輪村)にある音楽教室です。

音楽大好き!
音楽って楽しい!
音楽をやっていてよかった!

そのような気持ちで通ってきてくださる生徒様。
そんな生徒様のご要望にしっかりと寄り添い、生徒様の幸せを一番に考え、
講師一同明るい笑顔を忘れずにレッスンをさせて頂いております。

幼少期
音楽好きの父と
ピアノレッスンのはじまり

長野県安曇野市穂高の望月家に6人目の家族として生を受ける。
音楽好きの父は「子どもたちには楽器を習わせたい」という希望があり、私は幼少期にピアノを習うことになりました。
5歳くらいだったと記憶しています。

初めについた先生はとても優しい先生でした。
教室にはオルガンがたくさんあり、グループレッスンをしていた記憶があります。
練習していかなくても決して叱られることはなく、1年くらいはその先生のお教室へ通っていました。しかし、一向に上達しない我が子を見て、父は疑問を抱くようになったのでしょう。娘の将来を父なりに想像していたのかもしれません。

 -この曲を弾いて欲しい
 -この曲を弾けるようになって欲しい

父は違う先生を探しました。

新しい先生の元でピアノのレッスンが始まりました。

練習していくとたくさん褒めて下さり、練習していかないと「それでは上達しないよ」と、しっかりと注意をして下さる先生でした。
その頃から子煩悩な父は、毎日かかさず私のピアノの練習に付き合ってくれるようになりました。練習をしなければ上達しないことを父は分かっていたと思います。

当時NHKで毎日放送されていた「ひょっこりひょうたん島」を見てからが、私のピアノの練習時間でした。

 -「さあ、ピアノの練習をするよ」

父が手を引いて、ピアノのある部屋に連れていかれたものです。
ピアノはアップライトピアノを買ってもらいました。

小学校低学年
新しい先生との出会い

父の手ほどきの元、毎日欠かさずピアノの練習をしました。そうしているうちに、ピアノが上手になっていきました。
その当時のピアノの先生は、学校で音楽を教えている先生でした。

毎日練習をすると自然に上達もしていきます。ピアノ以外の世界でも同じですよね。
そんな私の様子を見て、私が小学校3年生の時に、東京から指導に来て下さっていたA先生(当時ついていた先生達を指導していた上の先生)に私を推薦して下さいました。
小学校3年生から、A先生の元でピアノを学ぶことになります。

A先生の元には、「ピアノが上手くなりたい」と真剣にピアノと向き合う大きいお兄さんやお姉さんが多く通って来ていました。A先生は音楽に妥協することなく、真剣に向き合って下さいました。

厳しい先生でした。

両親よりも年上の先生でしたので、幼い私にはとても大きな存在でした。

レッスンには毎回父が同伴してくれました。
父はもっと真剣に練習しないといけないと思ったのでしょう。当時の楽譜の中には父が調べた楽語の読み方や意味、リズムの取り方など、父が書き残したものがたくさん残っています。

ピアノが弾けない父は、父なりに勉強をしていました。
私が練習している曲のレコードを買い、聴かせてくれました。もちろん父も聴いていました。

父は音楽に関して素人でしたので、新しい課題曲をもらうたびに、
この曲はどんな曲かレコードを聴いて予習していたのだと思います。LP盤のレコードがたくさんありました。

父と一緒の練習が毎日続きました。
そのおかげで学校でも近所でも「ピアノが上手な れいこちゃん」として成長していきます。

小学校高学年~中学生
ピアノが自信へ

学校の音楽会はいつも私がピアノ伴奏。
そのうちに音楽の授業中も歌の伴奏をしたり、中学では3年間校歌の伴奏を担当。
全校で校歌を歌う日の朝に音楽の先生から「おい、望月、今朝は校歌だからな」
そう言われるだけで、いつでも暗譜で校歌を弾ける私は音楽の先生に重宝がられていたと思います。

ピアノを習わせて頂いたおかげで、何の取り柄もない私でしたが、周りから少しだけ認められ、頼られることを経験し、自分自身に自信が持てるように成長していきます。

高校生~音大
ピアニストになれない指

私は、生まれつき両手5番の小指の真ん中の節が、他の節より短いです。
つまり5番の小指が他の指に比べて極端に短く、ピアニストとしては致命的な手の形をしています。

幼い時はそんなことは気にもなりませんでしたが、成長するにつれて5番の小指が短い事で演奏上困ることがたくさん出てきました。

オクターブがギリギリ届く程度の指の長さですので、オクターブが連続して出てくる曲を何度練習しても綺麗に弾く事が出来ません。
指が短い事でそれを克服する練習を見つけることも出来ずに、時には焦りや苦悩の中でピアノの練習が苦痛になる時もありました。

風の噂で「手が小さくてピアニストになりたかったら、指と指の間を切って手を大きくする人もいる」と耳にしたこともありました。

 -そんな痛い事までして、私はピアノの世界でやっていかなくてはいけないのか

半ば諦めの気持ちで毎日を過ごしていました。

オクターブ連続の大曲を物理上、私は美しく演奏する事ができないのです。
ショパンやリスト、ラフマニノフなどの大曲を今でも弾きたいですが、
雑音が混じってしまいます。

多少投げやりになって練習から離れた時期もありましたが、指が短い私でも弾ける曲を選び、その課題曲で音楽短大へ進路を決めます。
その当時の我が家は経済的に苦しい状態でしたので、大学への進学は諦めていました。
短大を早く卒業して働こうと考えていました。

短大の生活は本当に楽しかったです。
人生の中で一番楽しかった時期でもあり、友人にも恵まれました。
親元から離れて自由ですし、多くの高校の同級生も都会の大学へ進学していましたので、その友人が通う様々な大学の人達と交流を持てた2年間でした。40年経った現在も当時の友人と交流を続けています。

指が短かったですが、もともと楽天家の私は「ま、しょうがないか」と、
オクターブがたくさん出てくる曲はなるべく避け、手が小さくても弾ける曲を練習しました。

短大でのピアノの成績は常に上位でした。
1年生の時の学内演奏会と2年生の時の卒業演奏会のどちらも出演することができました。

指が短い私はピアニストにはなれません。
しかし、なれるものがあることに気が付いていきます。

 -そうだ、ピアニストが無理ならば、日本一のピアノ先生になろう

こう考えるようになっていきます。

望月音楽教室の開室と『光の音!』

ピアニストにはなれなかった20代の若者が、日本一のピアノの先生になろうと思い、小さな小さなピアノ教室を始めました。

 -どうやって教えたらいいの……。

そんな新米ピアノ教師としてのスタート、生徒1人から始めました。
あれから40年超、この道一筋でこの仕事をやり続けてきました。

指が短い私は大曲が弾けません。今でも悔しいです。
だからこそ、指が短い私が出来ることを前向きに考え、ピアノの音色にとことんこだわった演奏を目指してみました。

音色や曲の構成に気を配り
人の心が喜び
人の心が豊かになる音色

弾き手も聴き手も、いつまでもこの時間を共に過ごしたいと思うような空間。
私はその音を指導を通じて見つけてきました。

『光の音!』

私はその音をそう名付けました。

『光の音!』望月メソッド
そして、これから

音楽には不思議な力があります。
音の波動と言いますか、それは不思議な力です。

教室の植物は毎日音楽を聴くことにより、お水とほんの少しの栄養剤で生き生きと20年以上も生き続けています。

私達も悩みや苦しみ、問題を抱えている時に音楽を奏でたり聴いたりすることで、その悩みが緩和され、穏やかな自分になれます。
自然と心が落ち着き、元気になれる自分を感じます。

ピアノと出逢ってから60年近くが過ぎ、ピアノ教師としての40年を通じ、人の心を動かす『光の音!』も見つけることができました。
そして『光の音!』を奏でられるようになる望月メソッドの構築も完成しました。

40年経った今だからできるようになったレッスンがあります。
子どもたちが入門したその日から、将来を見据えたレッスンが始まるのです。
だから今何をすべきなのか、40年指導してきたからこそ、見える世界も変わり、指導者として成長もできたと思います。

指導法も全てがつながり、40年の集大成がようやく完成したと思います。
40年間未熟な指導者としての私と学び続けてくれた、1,000人を超す生徒達。
それを暖かく見守って下さり、私を信頼して大切なお子様を預けて頂いた保護者の皆様方に心より感謝申し上げます。

『光の音!』は本当に美しい音です。
”光の音”には不思議なパワーがあります。

よし、光の音を出すぞ
光の音を出したい

といった前向きに努力する気持ちが子どもたちから自然に生まれ、子どもたちは毎日集中して練習が出来るようになりました。

”光の音” をどうしたら見つけられるのか
”光の音” は私達に何をプレゼントしてくれるのか
”光の音” を聴いた人達はどんなことを感じるのか

子ども達と一緒に考え子ども達と一緒に練習します。
その音を見つけられるまで根気強く、決して諦めずに……

”光の音”を見つけ出すことが出来た子ども達は、光の天使となってその音を届け、聴く人の心を満たすことができるでしょう。

”光の音”の存在を知った私の所には”光の音”がそっとやってきて、私の耳元で優しく囁きます。


 その音でもっと皆を幸せにしなさい、と……

さいごに

指が短い……。

そんな自分ではどうすることもできない身体的理由で演奏家にはなれない。
でも、音楽が大好きだった一人の若者が、日本一のピアノの先生になろうと決心した懐かしいあの日。

生徒様1人から始めたお教室が40年経った今、ほんの少しだけ発展させて頂くことができました。
同じ志を持つ講師仲間も一人二人と増え教室を支えて下さり、今では講師一人一人が専門分野の指導、得意分野の仕事、自分が喜びを持ってできる仕事で生徒様のご要望に寄り添えるお教室として運営できるまでになりました。

人の心を動かす美しい輝きの音『光の音!』も見つけることができ、その指導法も確立しました。
そして、教室の生徒様以外にも日本全国のピアノの先生方へそのメソッドをお教えさせて頂けるようになりました。

音楽好きの父のお陰でピアノを奏でる喜びを知り、ピアノを教える喜びも知り、ピアノと出逢ってから60年近くが過ぎました。

ピアノ教師としての40年があり、今ようやくここへたどり着くことができました。
これからも音楽を通じ、周りの人々の幸せを願い、太陽のような存在でいつも明るく前向きに生きている様を見て頂けるよう、切磋琢磨しながら生き抜いていこうと思います。

音楽の道へ導いてくれた亡き父に感謝の念を送りつつ、毎日手を合わせています。


長文最後までお読み下さり誠にありがとうございました。

望月音楽教室代表 望月玲子